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問題:
最近の高校生は、音楽CDのことをなんて呼んでるでしょうか?
答えは……
「マスター」だそうです。つまりこういうことです。例えば、クラスで誰かが、
「おーい、浜崎の新しいアルバムのマスターゲトったぜ」
と言います。そしてクラスの子全員に回覧して貸します。
CDを受け取った子は、iTunesか何かにそのアルバムを取り込んで、次の人に回します。回覧が終了したら、そのCDはポイ。
もうパソコンに取り込んだから、不要なのです。・・・
音楽がわりと好きな僕からしたらCDの価値、というものは旋律的なもののみにあらず、
音質(クオリティー)や所有欲などにもあるのだけれど。
またパソコンに取り組むメディアとして見るにし、ある種のバックアップとしてCDを捉えている面もあるが。まあどちらにせよこれはあまり合理的な選択とは思えないので除外。
しかしながらまあ、金がないならこの高校生たちの選択はある意味当然という気もする。
僕が高校の頃は主要なポータブルメディアはMDだったが、
ある程度メジャーな作品はレンタルですませて、
レンタルのラインナップにないようなマイナーな作品をせっせと買いあさっていた。
その精神と重なる部分がある気がする。するかもしれない。
でもちょっと違っているのも知っている。
まあもしこのような状況が本当なら(P2Pの方が規模として大きいだろうが、CDに対するこういう”考え方”が蔓延している、としたら)、
以前CDショップで働いていたときによく聞いていた「CDが売れなくなった」というのは至極当然と言わざるを得ないなぁ。
因みにこの話を見て、フューチャリスト宣言 に書いてあった「ウェブ上ではオープンなもの、フリーなものが広がっていき、人間の本質からもその傾向は今後更に顕著になる」という、パソコン、ウェブ上での世界の原理や、
糸井重里がLifeでしゃべっていた「文化系ってのはつまりタダっていうこと」という発言(と、「つまり消費するのは安くすむが儲からない」と解釈した柳瀬さんの言葉)を思いだした。
更に、「コンテンツをお金に変えるという努力や工夫の上で、みんなわりとまだ手を抜いているなと感じるが、糸井さん(ほぼ日での話)は体張ってるし知恵使ってるし、かなり工夫している。」という柳瀬さんの発言も。
音楽産業にお金が集まらなくなる事で、良質な作品が生み出される環境が廃れてしまうのは僕にとってかなり問題である。
いかに「いい作品を作った人が、それに応じてお金の面でも良い待遇を得られる」というシステムを作れるか、というのは今後大きな意味を持った課題になるだろう。というか既になっているか。
個人的にそのような観念のシステムは今までも成立していたとは思えない、
つまりくだらない作品が大々的に宣伝されることで売り上げを伸ばし、素晴らしい作品が埋もれているという現状が今までも随分あったと思う。
勿論それは主観的なものも大きいし、売れたもので素晴らしいものも沢山あるから一概には言えないが・・・
今までも散々見聞きしていた話ではあったが、
ウェブやパソコンという大きなイノベーションの登場で、
リアルの世界での集金システムは、音楽産業に限らず、今後大きく変化せざるを得ないのだろうなと改めて感じた。
逆にそれに失敗した産業は廃れていく可能性すらあるし、そのシステムの構築に成功すればそれだけで大金を得られるかもしれない。
う~ん、本当にコンピューターとウェブのもたらした社会の変化というのは、根が深く大きなものなのだなぁ。
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たりないもの占い
最近はなんとなく、小さくとも毎日の積み重ねこそが大事だと考えていました。
違うんじゃないか。
少なくとも自分にはその考え方はfitしていないのではないか、となんとなく今日そう思った。
その理由として、
・最大限に何かを学び取ろう、という姿勢と、今日のノルマをこなそうという姿勢では、
同じ時間学ぶとしたらやはり前者の方が効率が良いはず。
そして日々小さな積み重ねでも、という思いがあると、マンネリがちになり、
後者の姿勢になりがちなのはあまり異論はないのではないだろうか。
ではなぜ今まで(というか最近は)後者の方がいいのではないか、と思っていたのかというと、
やはりトータルで見た時の触れる時間の差、これが大きな差になると思っていたという部分が大きい。
更に言うと、自分の中にない、ある考え方や習慣に慣れるのに、
時間をかける事で脳が適応して違和感がなくなっていく部分があるのではないか、という意識も働いていた。
つまり、眠ると脳内が整理される、とか、そういう種類の考え方の延長だ。
しかし、これは対他人を考えた時に、より抜きん出るためには、という意識が前提としてあった。
時間が無限にあるのならそこに使える時間の大小は結局大きな差となって表れてくるだろうが、
時間が限られた中、対誰か、ではなく、対自分の視点で考えた時に、効率により大きな比重を置いたなら、
自然とその時にできる最大限のことをやる、という積み重ねをした方が良いのではないだろうか。
毎日やることが目標になるのではなく、たとえ断続的になったとしても結果を見据えた上でのアプローチ。
その姿勢は受身ではなくより積極的に行動していくものなので、
そういう姿勢を常に取るというのも精神衛生上いいかと。
結局そういう、最大限のことをする、ということをプラスして更に!毎日できる人が、
スポーツや音楽でも大きく活躍しているのではないか。
彼らは、決められたノルマを受動的にこなすことでその地位や実力を手にしていたのでは決してないはずなのだ。
ということを思った。
ということで、一日数学だけ8時間程度3日連続やるものの、
しかし予備校もサボりトータルでは月8日くらいしか勉強せず寝てばかりいた、
あの浪人時代の勉強スタイルに戻す時がきたか・・・!
・・・いや、日数は頑張って増やしてはいくつもりだが何か。
注・これは、「行動を起こすときは、時間的なコストもお金のコストもかかるから、それに対する見返りが想定できないと始められない」という勝間和代著『読書進化論 』の文章を読んだ時に連想して思ったことを書いた。
この本の中身はエッセイ程度の軽いもんで、
著者の本・ネットとの付き合い方やそれによって得られた来歴を述べているような内容。
少しタイトルから受ける印象と違うかもしれない。
具体的な中身にそこまで特筆すべきものは感じないが、多少の刺激とインスピレーション、自分の考えの肯定の強化、程度にはつながるかもしれない。
しかし個人的には、直接的な影響でないにせよ、そもそもこういうもの一つ書けているだけで収穫ではあったのだが。
他者との社会的関係性が能動的・受動的に関わらず、絶たれている、もしくは殆ど繋がっていない状態・その状態に陥っている者を指す。主に、当事者内における他者に対する心理的な態度・姿勢を定義したものであり、慣例的な社会的行動・コミュ行動を実行する能力の有無とは関係はない。非コミュ - オレ理論
ということで測ってみました。
socioarc | 非コミュ指数テスト α ver.
なんとなく、僕はもう少し非コミュ性高いかと思っていたが意外とそうでもなかった。
まあそうでもない気もする。
しゃきしゃきキャベツは私の味方。
年々値段は上がっているみたいだけど、うまいからつい食べちゃうね。
販売期間も短いし。
今年は12/4までだそうです。食べたい人はお早めに。
因みに、どの程度値段が上がっているか、去年との比較。
・2008年「グラコロ」290円~300円。「チーズグラコロ」310円~320円。
・2007年「グラコロ」250
はい、ということで結構あがってるみたい。
チーズグラコロなんか豚丼一杯食える程度の値段ではあるが、でももう一個くらい食べたいな・・・
因みに、関東のマックでは11/28から、表参道でマックとも知らず行列ができ、
マックとも知らず大絶賛して恥をかいたとか味覚を疑われたとかいう人々が続出したとかしないとか(長くてスマソ)、
色々と話題だったクォーターパウンダーが発売される予定。
これも是非ためしてみたい。
マクドナルド:話題のバーガー「クォーターパウンダー」 28日からマックで発売